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植草さんの日記に注釈をつける
『植草甚一スクラップブック』というタイトルで、かつて植草さんの全集が刊行された。一九七〇年代のなかば過ぎから、ある期間にわたって毎月一冊ずつ、刊行されていたような記憶がある。毎月、本のなかに月報がついていた。本とは独立した、数ページの小さなパンフレットのようなものだ。業界の言葉では、投げ込みと言っている。普通の投げ込みよりは、手のかかったものだった。
植草さんの日記がひとつの柱になっていて、何人かの人たちがエッセイを寄せていた。植草さんの日記は一九七六年の一月一日から書き始めたものが、収録されていった。この月報に使う目的もあって書き始めた日記だったのではないか。一九七六年一月二十四日の日記には、次のような一節がある。
「用事がすんだあとで渋谷の横町の石井さんのところへ古本を買いに行きたくなる。ここんところの洋書の古本は石井さんのところが一番おもしろい。二時。やっぱり十五冊あって、いつものように大幅にまけてくれて四一〇〇円。さがしながら二時間ばかり遊んだとなると、こんなに安あがりなものはない。ヒサモトでコーヒーを飲んだが、寒いので六時半に帰って風呂に入り、買った本をパラパラめくった」
この一節に、僕に出来る範囲で注釈をつけたい、と僕は思う。
まず「渋谷の横町」だが、これはヨコマチという名の特定の区域ではなくヨコチョウだ。植草さんは普通名詞のように使っているが、ひょっとしたら恋文横町の省略形かもしれない。道玄坂下という信号を頂点にして、道玄坂ともう一本、東急本店のほうへ向かう道とが作る三角地帯には、いまは109という建物と、ザ・プライムとかいう建物がある。
このふたつの建物を作るためにすべて取り壊される以前には、この三角地帯のなかは狭い路地が複雑に入り組み、その路地の両側にさまざまな商店のつらなる商店街となっていた。恋文横町はこのなかにあった路地だ。この三角形の底辺は、ザ・プライムの前をとおり過ぎてなおも道玄坂を登っていくとある、右へ入る細い道だ。この道は、道玄坂下から東急本店へ向かう道へと、つながっている。
ここにかつて恋文横町ありき、と書いた小さな看板がいまでもあるから、探してみるといい。この看板には相当な思いがこもっている、と僕は感じる。三角地帯の底辺を越えて、スロープの上へ上がった一帯が、百軒店(ひゃっけんだな)だった。百軒店という名のとおり、入り組んだ路地に面して、小さな店がたくさんあった。三軒茶屋の三角地帯に、少なくともいまはまだ残っている仲見世という商店街が、少しだけ似ている。恋文横町や百軒店が、つまらない建物のために跡形もなく消えたのは、渋谷にとってたいへんな損失だった。
「渋谷の横町」について僕に出来る注釈は、以上のようだ。「石井さんのところ」とは、この横町のなかにあった、洋書専門の古書店のことだ。石井さんとは、そこの店主だ。この古書店の正式な名称を僕は知らない。石井洋書、というような名だった記憶もある。確かではない。
道玄坂の下から右側の歩道を登っていく。ザ・プライムの正面を過ぎたあたり、と僕が見当をつける位置に、右へ入っていく路地があった。路地と店舗で構成されていた三角地帯の内部へ入っていくための、いくつかあった入り口のひとつだ。
その路地の入口の片側は、化粧品や女性の洋品を売る小さな店だった。向かい側は喫茶店だった、とかつて僕自身が書いた文章のなかに、書いてある。この路地を入っていくと、両側には小さな店がびっしりとならんでいた。男性の服を売る店と飲み屋が、なぜだか多かったという記憶がある。「石井さんのところ」は、この路地の奥の、右側にあった。
この洋書専門の古書店のフロア面積は、四畳半ほどだったのではないか。形は正方形だったと記憶している。この店に関するいちばん最初の記憶は、四畳半ほどの床面積の、箱のようなスペースだ。みかん箱と呼ばれていた木製の箱をいくつか、地面むき出しの土間に配置した上に、雨戸のような作りの板を二、三枚ならべ、その上にアメリカの雑誌やペーパーバックが、なんとなく積んであった。中年の男性がふたり、店番をしていた。ふたりのうちひとりが石井さんだった、と思う。
それから何年かあと、友人に誘われてその店へいってみると、店の三つの壁は、天井に届くほどに積み上げた古雑誌やペーパーバックで、何重にもふさがれていた。いろんな雑誌の最新号が、壁や天井から吊るしてあった。商品である雑誌や本に埋まるようにして、白髪の石井さんがいた。客がふたりも入ると、店はいっぱいになった。客が三人いるときには、石井さんが店の外に出ていた。
いつも石井さんが店にいるようになる以前には、スーツをきちんと着て黒い靴を常にぴかぴかに保っていた青年が、静かに店番をしていた。店が休みの日には鉄のシャッターが降りていた。
道玄坂からではなく、東急本店へ向かう道からも、三角地帯のなかの石井さんの店へいくことが出来た。男性の服の店が両側にあった路地を入る。セメントを何度も重ね塗りしては補修した路地は、けっして平らではなかった。かと言って凸凹でもなく、不定型に波打っていて、しかもいつもなかば水に濡れていた。
夕方なら、ニラを中心にキャベツその他の野菜をラードで炒める匂い、あるいは焼き魚の匂いなどが、この路地には濃厚に漂っていた。土曜日や日曜日の午後だと、ラジオの競馬中継がどの店からか聞こえていた。この路地を入ってすぐに、左へ曲がる。曲がらずにまっすぐにいくと、このあたり一帯の店へ来る客のための、共同トイレットがあった。これはのちに一軒の店の専用となった。
左に曲がると、石井さんの店の向かい側にある飲み屋のガラス戸に、古洋書の山が映っているのが見えた。大量の古雑誌やペーパーバックが、壁に寄せて何重にも、うず高く積み上げてあった。雑然とした印象があったが、どの山もみな石井さんによって、ある程度までは仕分けされた山だった。石井さんの店を構成するいくつもの本や雑誌の山のなかには、新しく入荷したものだけを植草さんのために積んでおく、植草山があった。店へ来た植草さんが点検するのは、この山だった。石井さんがそう言っていた。
「ここんところ洋書の古本は石井さんのところが一番面白い」と、植草さんは日記に書いている。面白いかどうかは、当然のことだが、仕入れによる。仕入れに関して多少とも積極的になれば、店頭に山積みされる本や雑誌に、他の店にくらべて多少の違いはあらわれたはずだ。植草さんが買ってくれるからという理由だけで、石井さんが仕入れに積極的になった時期が、確かにあったようだ。
仕入れる商品は、ご用済みのもの、つまり米軍の基地や施設の人たちが捨てたものだった。その処理を請け負う業者がいて、雑誌やペーパーバック、そして本などは仕分けされ一定のルートで石井さんのような小売商に卸されていた。
「さがしながら二時間ばかり遊んだ」と、植草さんは日記に書いた。「遊んだ」という言いかたは、植草さんにとって、まさに実感だったと言っていい。一冊ずつ手に取り、タイトルや表紙を点検する。ページを繰って内容の見当をつける。植草さんの目をとおして英語で頭に入ってくる情報は、すでに蓄積されている膨大な知識や情報、体験などと、縦横無尽に、複雑な連関を一瞬のうちに結ぶ。
「十五冊あっていつものように大幅にまけてくれて四一〇〇円」と、植草さんは日記に書いた。僕も石井さんの店で何度も買った。安かった、という記憶がある。安い値段がつけてあるから安いのではなく、合計した金額から、ほとんどなんの理由もなしに突然、石井さんは大幅に値引きしてくれていた。
「ヒサモトでコーヒーを飲んだ」という記述のなかの、ヒサモトという店名には、聞いた記憶はあるけれど、自分だけでは僕はほとんどなにも思い出すことが出来ない。植草さんの日記に書いてあるのを見ると、そう言えばそんな名前の店があった、と思うのがやっとだ。あのあたりにあったあの店ではないか、というぼんやりした見当なら、つけることは出来る。ガラスを多用した明るい造りの店が増えつつあった時期の、そのような店のひとつだったような気がする。
カスミという名の喫茶店はよく覚えている。ザ・プライムの前を上がりきると、右へ入っていく細い道がある。この道の途中に、かなり急な階段がいまもあり、この階段に向かって右脇に、喫茶店カスミはあった。植草さんが月報の日記を書いた一九七六年には、カスミはまだ存在していた。一九六〇年代、さらには五〇年代までもが、店のなかぜんたいに残っている貴重な店だった。植草さんはこの店でも、買ったばかりのアメリカの雑誌を見ながら、コーヒーを飲んだはずだ。
「買った本をパラパラめくった」という最後の記述は、植草さんの核心となる部分だ。だから、「パラパラめくった」という行為について注釈をつけていくと、それは一冊の植草甚一論になる。
(『坊やはこうして作家になる』2000年所収)