2020年12月9日水曜日

外科医師を守る会 への支援を!!

 

外科医師を守外科医師を守る会 https://gekaimamoru.org/

 

外科医師を守る会 とは

足立区にある病院の非常勤外科医師は、2016825日朝、準強制わいせつの疑いで突然逮捕、 914日に起訴され127日まで105日間の不当拘留が続きました。
関係者への事情聴取や現場検証から、疑われている行為は、全身麻酔による手術後35分以内のことで、手術後の幻覚や錯覚が織り交ざったものであり、4人部屋でかつ頻繁に看護師が出入りする環境の中で起こったものです。客観的にも医学的にもこの様な事が行われたとは考えられず、また逮捕時と起訴時の事由も異なっており、外科医師の逮捕・起訴は全身麻酔手術後患者の訴えのみを根拠とした不当なものです。

上記WEBより引用、続きはWEBよりお読みください。る会 https://gekaimamoru.org/



2020年11月7日土曜日

岩茸(いわたけ)は苔ではない

 蓼食う人々

著者       遠藤ケイ著

発売日   2020.05.07発売

蓼食う人々

著者   遠藤ケイ

発売日   2020.05.07発売

山と渓谷社

 74頁 岩茸は、地衣類に属する苔の一種


賢者の山へ

遠藤 ケイ  ()

発売日 1997年6月

山と渓谷社

 43頁 イワタケは、地衣類に属する苔の一種


2020年9月18日金曜日

星野玲子

  星野玲子は自分について「私の生活信条はね、ころんだっていいんですよ。長い人生、この人生険しいんですから。でも、その時は泣けるし、痛いですよね。でも、ゴールまで全力で走る。小意気な生き方は出来ないんです。いらぬスキャンダル、噂を立てられたり…。

 恰好いい生き方は私には出来ないんです。まあ、私も女ですから、男性関係の失敗もよくあったし、仕事の上でももうイヤだと思った時も幾度もありました。泣きながらでも立ち上がって生き続けるべきだと…。だから器用に傷つかないで生きて行こうと思ったことはないんです」(星野玲子『「しぁんくれーる」…私の人生そのもの』「jazz1975年8月号」(ジャズピープル社、1975年))と話している。

店名の由来について、オーナーの星野玲子(1927-1996)は「「しぁんくれーる」とはフランス語で「明るい田舎」という意味で、その頃の河原町荒神口はひなびた感じで、喫茶店をやるような感じの所ではなかったんですよ。今でこそ周辺部も随分と開けましたけど…。それと、「思案に暮れる」というのが偶然に…。別に思案にくれるという意味で付けたわけではないんですよ」(星野玲子『「しぁんくれーる」…私の人生そのもの』「jazz1975年8月号」(ジャズピープル社、1975年))と説明している。

 「実は星野玲子氏の父は、独創的な学習法として今も学習参考書が発行されている「チャート式」の創案者、星野華水(半五郎)だった」「星野氏は名家の令嬢だった」(『しぁんくれーるの美女㊦令嬢の変転』「京都新聞2019年5月16日」(京都新聞社、2019年))とされる。

2020年9月17日木曜日

 DKrypt Special Catalogue No. 7 (AIgen, Flechten, Moose, Farne) 312pp. 1985. 世界中の淡水藻,海藻,地衣,シダ類の出版書2100冊につき内容紹介,頁数,定価(ス イスフランと西独マルク)が記しである,注文は次へ。 F.Fluck-Wirth, Internationale Buchhandlung fur Botanik und Naturwissenschaften, CH-9053 Teufen AR. Schweiz. (小林義雄) -

2020年7月27日月曜日

杏雨書屋は早川佐七の蔵書を一括購入したのだろうか?


小曽戸 洋氏の杏雨書屋のコレクションについての解説記事(日本医史学雑誌 第 61 巻第 1 号(2015))に以下の記述がある。

昭和 78 年頃,和敬翁は早川佐七(香邨)の蔵書を一括購入した(楂考書屋本).これが杏雨書屋の蒐書活動に拍車をかける契機になったといわれる.

この説明は正確さを欠いていると思われる。

武田和敬翁追想録編纂委員会(編)武田和敬翁追想、1960年に掲載されている「翁と図書(座談会)」にある杏雨書屋の特殊コレクションについて関係者が語っている記事を読むと、楂考書屋の蔵書のうち大部分の洋書は丸善に引き取られ、朝比奈先生の絡みで植物学専門雑誌の「Hedwigia」と「Flora」のみが杏雨書屋に引き取られとある。さらに楂考書屋の和漢書だけを購入したある

早川佐七(香邨)の蔵書のうち和漢書と洋書の一部が杏雨書屋が購入されたようである。

結局、早川は昭和7年にはその蔵書をすべて手放さなければならなくなった。洋書は丸善が一手に引き受けた。買値は3万八千円だったという。和唐本はその多くを井上が手掛け、一括して武長に納めた。 
215頁 井上書店の記 ー井上喜多郎小伝ー 井上書店 平成9年7月発行

141頁 十月二十一日 日記に早川佐七の話あり 

紙魚の昔がたり 昭和編 井上周一郎談および八木佐吉談 

2020年7月17日金曜日

おもしろい用法

東都生協の多くの組合員さんに八千代牛乳の利用を増やして頂いたことは、千語万語を費やしても表現できないほど感謝しております。

2020年7月1日水曜日

植草甚一 蔵書 評価


津野 海太郎(著)したくないことはしない-植草甚一の青春、新潮社、200910

195

1979年、植草さんが七十一歳で亡くなったあと、梅子夫人の依頼もあって植草さんの全蔵書を神田と渋谷の古本屋さんに売り払った。私もその後始末にかかわった人間のひとりだった。

この措置にたいするはげしい批判もあるにはあったが、もともと植草蔵書は一貫性のあるコレクションではなく、新しいもの好きの植草さんが、そのときどきの興味によって買いあつめてきた蔵書の山にすぎない。

石井書店と植草甚一


晶文社編集部(編)
植草甚一ぼくたちの大好きなおじさん-JJ 100th Anniversary Book 
晶文社、20088

鏡 明:散歩は探検だということを発明したのは植草甚一じゃないだろうかと思っている。

35頁 上段 
植草甚一という人を初めて見たのは、渋谷の道玄坂の下、恋文横丁の中にあった石井さんの店だったと思う。その店は洋書の古本屋だったのだけれども、巾一間ほどの店の前にはビニール袋に入れた洋雑誌がずらりと貼り付けてあった。その雑誌の下をくぐるようにして入ると、ハードカバーやペーパーバックが雑多な感じで積んであった。そのすぐ左側に石井さんが座っていて、客が一人入ったらもういっぱいになってしまう。いや、もう一人ぐらい何とかなったかな。

37頁下段
そのことを実感したのは、植草甚一の死後、その本の一部を見たときだ。
やっぱり八十年代の初めのことだけれども、恋文横丁の店を畳んだ石井さんが神田駿河台下と小川町の間のビルの三階に移ってきたことがあった。その店は植草甚一の蔵書の一部を売りさばくための店だった。

2020年6月10日水曜日

word で白抜き画像の作成方法

https://sellercentral.amazon.co.jp/learn/courses?ref_=su_courses_c3_m315&moduleId=315&modLanguage=Japanese&videoPlayer=youtube

植草甚一日記に載る石井書店

植草甚一コラージュ日記〈1〉東京1976 2003年10月 平凡社

植草 甚一 (), 瀬戸 俊一 (編集) の「索引」から拾い出しました。

13ページ  1月6日  三冊500円

38ページ  1月24日  15冊4100円

74ページ  2月28日 16冊2100円

100ページ  4月2日 14冊4000円+おまけ1冊

115ページ  4月19日 23冊  7200円

119ページ  4月25日 10冊4800円

131ページ  5月12日 7冊 3700円

135ページ  5月16日  14冊  3800円

200ページ  7月8日  14冊4000円


2020年6月9日火曜日

植草甚一氏の蔵書の行方 その2

けっきょく蔵書は、晶文社の編集者の津野海太郎が上司の小野二郎(英文学者)と植草の友人だった篠田一士はじめ(英文学者・文芸評論家)と相談してすべて売ることに決めた。著名人の蔵書はまとめて図書館などに寄贈されることもあるが、植草の場合はそのほとんどが雑本であり、一括してまとめて管理しても無意味だとの判断で市場に出すことになったのだ。このとき古本屋を手配してくれたのは作家の片岡義男だった。
このほか、植草が印刷物を切り抜いてつくったコラージュ類など遺品の多くは、イベント会社主催による「植草甚一展」でファンに売り出された。そこでは故人の使いかけのちびた鉛筆までもが販売されたという(高平哲郎『植草さんについて知っていることを話そう』)。

植草甚一氏の蔵書の行方

死後、レコードに関してはタレントのタモリがすべて引き取ったが、蔵書は散逸したようだ。『ブルータス《本の特集》(1980年11月1日)』には夫人である梅子さんの話が掲載されている。
あの人が亡くなってから色々整理して今はこの部屋と書庫専用の部屋と2部屋になっています。(略)亡くなった後、何人か本の整理を申し出てくれた人もいましたが、みんなお断りしました。今は晶文社の人と、主人が昔から親しくしていた本屋さんだけが面倒みてくれています。本屋さんが少しずつ整理しながら売ってくれているんです。
記事には植草甚一氏の整理を手伝っている井光書店の話も紹介されている。
誰か全部まとめて引き取ってくれる人がいれば、散逸しなくて済むし有難いのだが、とても無理でしょう(略) 生かして使ってくれる人を探しています。
残念な気もするが、買い求め使用した本を市場に還元したという意味では、潔い選択なのかもしれない。資料を使いたい人のところへ回っていくはずだからだ。

第4回 持ち主を亡くした本はどこへ行くのか

2012年9月12日
posted by 西牟田靖

石井書店 恋文横丁

渋谷の横町を、植草さんのとおりに歩く


縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る

 植草うえくささんの全集『植草甚一スクラップブック』には、毎回、月報がついていた。その月報には、一九七六年一月一日から書きはじめた植草さんの日記が、すこしずつ、のせてあった。
渋谷しぶやの横町の石井いしいさんのところ」が、日記のなかにときたま、出てきた。この、渋谷の横町の石井さんのところでの植草さんのトリップについて、ぼくに書けるだけ書いてみたいという気がしてきた。
 一月二十四日、土曜日の日記から、まず、すこし引用してみよう。
「用事がすんだあとで渋谷の横町の石井さんのところへ古本を買いに行きたくなる。ここんところ洋書の古本は石井さんのところが一番おもしろい。二時。やっぱり十五冊あって、いつものように大幅にまけてくれ四一〇〇円。さがしながら二時間ばかり遊んだとなるとこんなに安あがりなものはない。ヒサモトでコーヒーを飲んだが、寒いので六時半に帰って風呂ふろに入り、買った本をパラパラめくった」
 渋谷の横町とは、百軒店ひゃっけんだなのことだ。このあたり一帯はとっくにとりこわされ、大きな建物になっている。昔の面影は、どこにもない。
「石井さんのところ」は、この百軒店のなかにあった。洋書・洋雑誌専門の、かわいらしい古書店だった。
 道玄坂どうげんざかのほうから、植草さんは入っていくのだろうか。女性用の化粧品・洋品店と喫茶店とのあいだの露地の入口から奥をのぞくと、男性の服を売っている店や飲み屋さんなどの店のつらなりのむこうに、「石井さんのところ」が、見える。露地の奥、右側だ。
 店が休みのときは、鉄のシャッターが降りている。開いているときには、売りものの洋書が店の入口から露地にはみ出し、むかい側にもつみあげてある。軒下にるしてある雑誌や、露地に出した本棚につまったペーパーバックなどが、道玄坂に面したその露地の入口から、見える。
 露地の入口から「石井さんのところ」へ歩いていくまでに、もしそれが土曜あるいは日曜の午後だったら、どこからか、ラジオの競馬中継が聞こえてくるはずだ。
 道玄坂ではないほうから、入っていくこともできた。道玄坂を降りきった交差点から東急デパートのほうへいく道があるが、この道からも入っていける。
 男性用の服を売っている店が両側にある露地を入る。セメントを何度もかさね塗りして補修したその露地は、いつでも半分がとこ水にれているようだ。
 こちらから入っていくと、ニラをまぜた野菜をラードでいためるにおいとか、焼き魚のにおいとかがすることが多い。つまり、ぼくは、夕方から夜にかけての時間に、ここをよく歩くから、こんなことを記憶しているのだ。
 露地の入口を入ってすぐに左に曲がる。曲がらずにまっすぐいってしまうと、トイレにつきあたる。道玄坂からのびているまたべつの露地とぶつかるところだ。このトイレは、かつてはそのあたり一帯の店にくる客の共同トイレだったのだが、いまでは、一軒のお店の専用だ。ドアにり紙がしてあり、そう書いてある。
 左に曲がるとすぐに、「石井さんのところ」のむかい側の飲み屋さんのガラス戸に、古書店の映っているのがまず見え、あ、店は開いてるな、とわかるしかけだった。いまその飲み屋さんは改装工事中だ。
 その古書店は、かわいらしい。大きさは、四畳半をひとまわり小さくしたようなものだ。ほぼ正方形なのではないかと思う。
 三方が板壁で、洋書の古本が、ぎっしりとつみあげてある。店のなかには、大人がふたり入れるほどのスペースしかない。いろんな種類の本が、雑然と、うずたかく、天井てんじょうまで、つんである。どうすればいいのか、どこから見ていけばいいのか、見当もつかない気持ちになるけれど、店主の石井さんには、どんな本がどこにあるのか、明確にわかっている。店へいくたびに、思いもしなかった面白い本が、かならず手に入る。それに、安い。すこしたくさん買うと、いつもどんどんまけてくれる。
 ここで、植草さんは、本を「さがしながら二時間ばかり遊」ぶのだ。楽しいにちがいない。
 少年のころからはじまって、現在にいたるまでつづいてきた、小説、映画、音楽、美術などに対する飽くことのない好奇心が、古書の山を前にして、フル回転するのだから、楽しいにきまっている。これまでに体験してきたことや蓄積してきた知識が、縦横無尽に頭の中をかけめぐり、とだえることのない連鎖のなかで、古書の一冊一冊から、そしてその古書のほんのささいな一部分から、あらたなる好奇心とその満足のために、植草さんの「遊び」が二時間にわたって展開されていく。
 渋谷の横町へ来るたびに、植草さんはこの古書の山をすべて掘りかえすのだろうかと思って店主の石井さんにきいてみると、新しく入荷した本を植草さんのためにだいたいひとまとめにしておき、植草さんはそこを見ていくのだということだった。
 面白い本がいかに手に入るかを、ぼくの場合にそくして紹介しておこう。最近、この店で、三冊の本を買った。順にタイトルと著者名をならべると──
『草のまくら』ナンシー・フェラン(一九六九)
『冬を歩けば』エドウィン・ウエイ・ティール(一九五七)
『ガンジス河をゆっくりくだる』エリック・ニューバイ(一九六六)
 この三冊で、値段は一五〇〇円をこえなかったと思う。
『草の枕』は、オーストラリアで生まれ育った著者が、日本のあちこちを旅行した紀行文だ。すこし読んでみたが、とっても面白い。日本の布団と西洋のベッドとの意識構造の差異を直感してすぱっと書いた部分が冒頭にある。これまで考えてもみなかったことだけに、植草さん式に言うと、うなってしまった。この本は、ぜったいに楽しめる。おなじ本が何冊かあったから、植草さんも買ったかな。
『冬を歩けば』は、冬の北アメリカ大陸をサンディエゴからセントローレンス河の河口ちかくまで二万マイルにおよぶ旅の、自然誌的な紀行文だ。これも、とびきり面白そうだ。春、夏、秋がすでに三部作として刊行されていて、この『冬を歩けば』によって全四巻完結となるのだという。そうだとわかると、ますます面白い。
『ガンジス河をゆっくりくだる』は、タイトルのとおり、インドのガンジス河を、源流のガンゴトリ氷河からベンガル湾の河口地帯までくだって旅をしてきたその記録だ。この本も、まだ読んではいないけれど、すこぶるつきで面白いにちがいない。
 こんなふうにして、面白い本をぼくは単発的に、しかもほんのちょっと、見つけ出すだけなのだが、植草さんは、ありとあらゆる知識の連関やからみあいのなかで、次々に、まるで手品のように、面白い本をひきだす。これはまさに、トリップだ。自分自身のトリップとして、一生つづく遊びとして、ながいあいだやりつづけてきてはじめて自分のものになる楽しみだ。それがいかに楽しいトリップでありハイであるかは、『植草甚一スクラップブック』を読んでいけばわかる。
 カスミというコーヒー店が百軒店にあり、ひところ植草さんは、ここでよくコーヒーを飲みつつ、横町で買ってきた洋書を見ていたようだ。この店は、数年まえとまったくかわっていず、入るとタイム・トリップのように感じる。
 おなじ百軒店に、かつて『妹姉』というギョーザ屋さんがあった。小粒な、コロッとしてひきしまったギョーザが、なんとも言えずうまかった。いけばかならず、三人前食べた。植草さんは、ここでギョーザを食べたかな。店の名が、なぜ『妹姉』だったのか、いまになって不思議に思えてくる。改装してから、ぼくは、遊び場がかわったこともあり、いかなくなった。いまでもあるかもしれない。
 どんな気分のときに、植草さんは、「渋谷の横町の石井さんのところ」へいきたくなるのだろうか。どうやって、いくのか。まっすぐそこへ直行するとは、とても考えられない。どこへ立ち寄り、どこでコーヒーを飲み、横町のあと、どこへいくのか。バスでいった場合、三軒茶屋さんげんぢゃや三宿みしゅくに寄るのか。電車なら、下北沢しもきたざわで降りて白樺しらかばへ寄るか。渋谷へいく周期を、統計的につかみうるか。青山あおやま六本木ろっぽんぎに足をのばすのか。のばしたら、なにを買うのか。
 とても面白いミステリーだ。植草さんの日記その他の文章から、名探偵のように、割り出してみたくなった。いつか雨の日に、ためしてみようか。
(底本:『きみを愛するトースト』角川文庫 一九八九年)

渋谷 恋文横丁 石井書店

2014年04月03日

4/3恋文横丁の古本屋さんを妄想する

冷たい雨の降り続く中、息長~く続行中の「古ツアフェア@盛林堂」に四月最初の補充を行う。しかしその後は何処にも寄らず、真っ直ぐ家に帰宅する。部屋で端座し開いたのは、昨日買ったばかりの「スクリーン3月号/1956年」である。洋画専門の映画雑誌で、植草甚一の記事や、ヒチコック来日の特写ページ、着色が毒々しいカラー写真などが、すこぶる楽しい誌面となっている。ページをパラパラ繰りながら、流し読みで雰囲気を楽しんでいると、映画評論家・双葉十三郎の活動を追いかけた三ページのモノクロ・グラビアルポ『素顔の映画批評家 双葉十三郎氏の場合』の中にあった、一枚の写真に目が釘付けになってしまう。うぉっ!見たことも無い古本屋さんの写真じゃないかっ!それは、狭い間口の小さな古本屋さんで、双葉十三郎が店内で立ち読みをしている。店頭のラックに並ぶのは、映画・音楽・テレビの洋雑誌で、店内の本棚に並ぶのは分厚いペーパーバックのようだ。写真のキャプションには、渋谷東宝前の迷路的露地にある洋書専門古本屋さんで、良く探偵小説や西部の資料を漁っていることが書かれている。『渋谷東宝』は、道玄坂にあった映画館で、今も『TOHOシネマズ 渋谷』として健在である。その前に存在した“迷路的露地”と言えば、『109』や『ザ・プライム』の建つ場所にかつてあった『恋文横丁』であることが容易に推察出来る。と言うことは、このお店は植草甚一や田中小実昌も通った「石井書店」なのではないだろうか?脳内で、妄想がスパークして行く…。私の記憶にある『恋文横丁』は、残念ながら開発が進んだ残滓の状態で、レストランなど二~三のお店しか無い、文化村通りから道玄坂に抜ける、ビル裏の路地でしかなかった…。早速一番古い1967年発行の圖書新聞社「古書店地図帖」を取り出し、渋谷の古本屋さんを調べてみると、「石井書店」は掲載されておらず、近くに「文紀堂書店」(2010/03/02参照)と井の頭線を越えた「山路書店」があるのみとなっている。ところが1977年発行の日本古書通信社「全国古本屋地図」を見ると、こちらには『恋文横丁』にしっかりと「石井書店」が存在することになっている。地図帖からは何らかの事情で漏れていただけなのか、それとも1967年以降に「石井書店」が出来たのか…そうなると、写真のお店は「石井書店」ではないことになってしまう。だが、1950年代の『恋文横丁』の店舗地図を確認してみると、小さな古書店が一軒だけ存在していることになっている。ならばやはり、地図帖が間違っているのではないか…。続けてネットでも色々検索してみるが、『恋文横丁』にあった古本屋としてひっかかるのは「石井書店」だけなのである。その他に『洋書古書店』とだけあるものや、気になるところでは『小林さんの古本屋』『植草甚一も通っていた井上さんの古本屋』などが見つかるのだが、お店の名は明記されておらず、どちらも建築関係に特化したお店らしいのだ。しかし、雑誌と古本屋地図の二十年の隔たりが、信じたい気持ちをグラグラと揺らす…。そんな気持ちが弱り始めたところに、すべてを解決してくれる文章をようやく見つけてしまう!それは、片岡義男が書いた「渋谷の横町の石井さんのところ」と言う一文である。文字通り、植草甚一と『恋文横丁』と「石井書店」(文中では「石井古書店」となっている)について書かれたエピソードで、1976年の「カトマンズでLSDを1服」のあとがきでも、すでに「石井書店」について触れていることも書かれている(文中では、それを書いたのが1967年とあるが76年~80年に刊行された「植草甚一スクラップ・ブック」のあとがきなので、恐らく誤記なのではあるまいか)。……やはり植草甚一が通い詰めていたのは「石井書店」なのである。1976年の時点で通い詰めていたのなら、その近年にできたお店であるとは考え難い。そして『恋文横丁』にかつてあった洋書古本屋は、恐らく「石井書店」だけなのである。とにかく私は都合良くそう信じることにし、このもはや絶対に入ることの叶わぬ「石井書店」の、新たな古い夢を見ることとなってしまった。…小さな店舗が何十店も連なる、薄暗い迷路のような横丁にある古本屋さん。だが、仮に時を飛び越えることがあって、妄想したお店に入れたとしても、洋書のお店の常として、私には、何も買える本は、ないんだろうなぁ。
screen_furuhonya.jpg
※近代映画社「スクリーン3月号/1956」67ページ『素顔の映画批評家』より

植草さんの蔵書の行方


高平 哲郎  ()
植草さんについて知っていることを話そう
晶文社 (2005/1/1)

274頁
植草さんが亡くなって、本は片岡義男さんの知り合いの渋谷の古本屋が引き取った。コラージュやブティック類は、イベント会社「植草甚一展」を開きファンの手に渡った。

2020年5月22日金曜日

三中信宏氏の著作

ある女子大の今春の入試で,ワタクシの記事:三中信宏「部分と全体,個物と集合 —— ふたつの世界観」學鐙 2017年冬号(第114巻4号), pp. 22-25(2017.12)か

2020年5月19日火曜日

Twitterで新種の菌が偶然発見される



Twitterで新種の菌が偶然発見される、学名はTwitterに由来 - GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20200518-troglomyces-twitteri/

2020年5月2日土曜日

2020年5月1日金曜日

2020年4月19日日曜日

回答者の70%が0冊と回答

ネットアンケート で この1ヶ月間で書籍(漫画・雑誌を除く)を何冊購入しましたか? の設問に回答者の70%が0冊と回答。

回答者数:62,407

2020年4月16日木曜日

関 京子 身も心もジャズ

拙著「身も心もジャズ」には、その頃の楽しい エピソードが書いてあります。先日出演された 守屋さんの演奏を聴きながら、ブレイキーさん のたくさんの思い出が頭をよぎりました。 [そのブログレポート] https://is.gd/nNV6zu 「身も心もジャズ」店頭にございます。 [Amazon サイトは] http://is.gd/BwZwe2 ♪ 長くなってしまいました。


身も心もジャズ (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2015/10/10

石川元助先生の経歴

石川/元助
1913年東京生まれ。1939年5月から46年5月まで軍籍にあり、中国北部、ニューギニアの民族学的調査を行なう。この間、陸軍通訳官、マラリア免疫研究所主任研究官などを歴任。戦後、東京大学薬学部薬化学教室で民族毒物学の研究に従事。1965年6月から12月まで京都大学アマゾニア学術調査隊副隊長として民族植物、毒物類の調査研究と採集を実施。以後、中南米地域への研究調査を重ね、その研究は世界的に評価された。日本大学文理学部講師などをへて1967年以降、名古屋学院大学教授。1981年12月13日、逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

2020年4月2日木曜日

杉山惠一 ラブールベニア菌研究手引 


 
たまたま見つけた「東海自然誌」のバックナンバーを調べていて見つけた。

東海自然誌 第1号 67―74頁 197491日発行
 
杉山惠一 ラブールベニア菌研究手引 
 
 
東海自然誌
静岡県を中心とした東海地域の自然史や環境史、さらにはそれらに根差した文化・芸術等に関する調査研究の成果を掲載する和文誌です。年1回発行予定です。第9号まではNPO法人静岡県自然史博物館ネットワークが、第10号よりミュージアムが継続して発行しています。

ふじのくに地球環境史ミュージアム WEB https://www.fujimu100.jp/ より。

2020年3月17日火曜日

渋谷にあった一坪洋古書店


再開発でSHIBUYA109ができるまで、あの辺りは細い路地が入り組み道沿いに小さなお店が密集していた。その一角に洋書専門の古書店があった。店主のお名前は石井さんであった。WEBで遊んでいてこの石井さんの古書店のことが、週刊朝日 19739月号、34頁.「まだつづいていたGI相手の洋書古本屋さん」で紹介されていることを知った。国会図書館で当該頁を複写してもらい、記事を読んでみたところ店名が「出光書店」であること、年齢が58歳(当時)であったことを知った。私が初めてこの古書店を訪ねたころは50zを初めて知った。

週刊朝日 19739月号、34頁.「まだつづいていたGI相手の洋書古本屋さん」より
店名は 出光書店
敗戦まもなく占領軍のGI相手に商売を始める
店主は58歳の石井さん


昭和45年(1970年)ごろ姉に教えてもらって初めて訪問、その頃は海外のオートバイ雑誌、アマチュア無線雑誌を探しに通いました。狭い店内に洋書が山積み状態、探し物を一冊一冊ひっくり返しながら探しても文句は言われませんでした。通い続けるうちにインスタントコーヒーをご馳走になりながら長時間おしゃべりするようになり、

2020年3月16日月曜日

永井康夫 ; 山田耕嗣

雑誌 アイエー出版, 1965-01 <Z16-286>
RNER/ / 15~ (0008.jp2)トピックス:パリから日本語でテスト放送!/永井康夫 ; 山田耕嗣 / 15~ (0008.jp2)受信証あつめアレコレ/国分久 / 16~ (0009.jp2)世界

きのこ アルス科学写真叢書 全2冊

きのこ アルス科学写真叢書 全2冊



  • 著者小林義雄 加藤邦三
  • 出版社アルス
  • 刊行年昭和8年
  • 冊数2冊

2020年3月15日日曜日

谷崎潤一郎 鴨東綺譚 週刊新潮連載中止小説


瀬戸内晴美随筆選集一 文学・自分への問い、河出書房新社、昭和504月初版 に収録されている「一つ屋根の下の文豪」、初出は「風景 昭和四十一年五・六月号」、に谷崎潤一郎が週刊誌に連載をはじめた小説が小説のモデルからの苦情で中断されたことが書かれている。瀬戸内氏はモデルをY氏として実名を出されなかった。

そこで小谷野敦(著)谷崎潤一郎 堂々たる人生、中央公論新社、2006年6月で調べてみたところ336頁に、週間新潮の創刊号から連載をはじめた「鴨東綺談」がその小説で、モデルとされたのは市田ヤエであると書かれていた。

2020年2月29日土曜日

2020年2月13日木曜日

田中延次郎

小林義雄 分裂子 94頁~100頁に評伝

もともとは「採集と飼育」


, 1983-07 <Z18-48>

310~311 (0018.jp2)小伝 明治・大正の文化につくした生物学者“植物学雑誌"の発起者 田中延次郎先生 / 小林義雄 / 

だと思う。


雑誌 日本菌学会, 1969-11 <Z18-749>
目次/ / (0001.jp2)田中延次郎伝に寄せて/ / 1~ (0002.jp2)Sorosphaera veronicae Schrot

近代日本生物学者小伝 にも再録されていると思うが、要確認。

奥沢康正先生  杏雨 第8号 2005年 
きのこ図譜から菌類学の発達を見る

の最後で田中延次郎を取り上げ、田中延次郎の描いたきのこ図譜が杏雨書屋に貴重本として収蔵されていることを明らかにされている。


日本植物防疫協会 植物防疫資料館 デジタル資料館


 

古書復刻版


 

田中延次郎、田中長嶺 

日本菌類図説 第1巻 第1篇 上


 

日本菌類図説 第1巻 第1篇 下