2021年3月27日土曜日

阿部秀悦 書狼伝説 を読む

 ユリイカ 29巻7号 112~120頁、1997年を国会図書館で複写してもらって、読んでみた。

古書に関わる随筆類を多く読んできたが、これほど読み終えて不快な気持ちにさせられたことはない。

なんでこんな不法行為を堂々と雑誌で公表できるのだろうか?

やはり著者は人格に問題があったとしか思えない。

2021年3月15日月曜日

中桐文子さんを検索していて見つけた詩人に関わる貴重なWEB

 

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にある

 

社長のためいき

 

にある

 

荒地と親父

 

荒地と親父 - TokyoPeaks - 新規サイト005

 

親父は詩を書くことが唯一の趣味で、"衣更着信"というペンネームで戦前の文芸雑誌"若草"などに投稿していたそうです。その投稿者の中に特定のグループが形成され、それが戦後荒地派と呼ばれ一気に開花したようです。

 

親父が命の次に大切にし、自分の詩やエッセーが掲載された戦前戦後の雑誌類はつい先ごろ全て盗難にあい、遺言だった遺稿集を出すことができなくなりました。しかし、荒地派の詩人の詩集やエッセー集の一部は残されているので、それらをゆっくりと読み返し親父の足跡をたどろうと思います。

 

上記過程で、気づいたことや書き留めておきたいことをまとめたのがこのカラムです。もし、親父の詩やエッセーなどが記載された雑誌などをお持ちの方は、是非該当部分のコピーを送付いただけたらと存じます。

 

社長: 鎌田紳二 氏のお父上の思い出と詩人  貴重な資料だと思う

●我が家に来た詩人達  2010/11/1

、鮎川信夫

田村隆一である。私


 何を見るのか田村、一編の詩でも浮かんだか?彼も大男だったそうだ。

ついでに他の詩人についてメモっておくが、親爺が第一回地球賞をもらった時私は通信とコンピュータを生業とする会社に就職し川崎に住んでいた。この授賞式に行って初めて会ったのが、中桐雅夫、木原幸一、黒田三郎、北村太郎だった。親爺はこの世界では無名だったから友人等が気の毒がって賞を与えたというのが本当のところだろう。青山会館だったと思うが授賞式があって、全員が授賞式後の飲み会に親爺を連れて行きたがっていたが、親爺はきっちりと断っていた。その帰り道、親爺の弁は「あいつらに付きあっていたら帰れなくなる」だったと思う。彼らの飲み方が半端でないことは戦前からの付き合いで百も承知だったのだ。

同郷の詩人として桑島玄二は、親爺の親友だったのでよく我が家に来て文学論をぶっていた。すごく優しい人で、長い時間楽しそうに親爺と喋っていたことを思い出す。田舎で会社を経営していたが、後に大阪芸術大学の教授になった。森川義信は香川県の三豊中学、親爺は大川中学出身で、荒地以前に互いに"若草"などに投稿していたことが縁で知り合っていたようだ。文通を繰り返し、旧制中学時代に高松で落ち合ったことがあると話していた。鮎川は早稲田で森川と濃密なつきあいをしていたようだが、親爺も森川とは特別の関係だったようで、「戦死しなければ」といつも残念がっていたことを思い出す。

追記:木原孝一もわが家で泊まっていた 2014/05/22

親父の記述によると、「…木原は大変な元気で拙宅の夜は大いに語り、深夜に及んで用意した酒がなくなった。(略)…まだ家も暮らしも不自由なときだった。病院用の鉄製ベッドにわらマットを敷いたものを小学生だった息子が使っていた。それをあけるから寝てくれないかというと、勘違いした木原は『よしよし』と上きげんで下着になると、隣の部屋で別のフトンでねていた息子の横にはいりかけた。後年まで息子は『ぼくと寝そうになった詩人』と木原のことをいっていた。…」とある。この文章を読んだとたんに子供の頃の貧しかった暮らしを思い出した。当時の私には、ごくまれに生卵一個を妹と二人で分けてご飯にかけて食べることが最高の贅沢だった。中学生になっても、大人になったら金持ちになって毎日卵かけご飯を食べるぞと密かに考えていたことを思い出す!金持ちにはなれなかったが、今でも温かいご飯があるとついつい卵をかけてしまう。三つ子の魂百までか?
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