2020年6月10日水曜日

word で白抜き画像の作成方法

https://sellercentral.amazon.co.jp/learn/courses?ref_=su_courses_c3_m315&moduleId=315&modLanguage=Japanese&videoPlayer=youtube

植草甚一日記に載る石井書店

植草甚一コラージュ日記〈1〉東京1976 2003年10月 平凡社

植草 甚一 (), 瀬戸 俊一 (編集) の「索引」から拾い出しました。

13ページ  1月6日  三冊500円

38ページ  1月24日  15冊4100円

74ページ  2月28日 16冊2100円

100ページ  4月2日 14冊4000円+おまけ1冊

115ページ  4月19日 23冊  7200円

119ページ  4月25日 10冊4800円

131ページ  5月12日 7冊 3700円

135ページ  5月16日  14冊  3800円

200ページ  7月8日  14冊4000円


2020年6月9日火曜日

植草甚一氏の蔵書の行方 その2

けっきょく蔵書は、晶文社の編集者の津野海太郎が上司の小野二郎(英文学者)と植草の友人だった篠田一士はじめ(英文学者・文芸評論家)と相談してすべて売ることに決めた。著名人の蔵書はまとめて図書館などに寄贈されることもあるが、植草の場合はそのほとんどが雑本であり、一括してまとめて管理しても無意味だとの判断で市場に出すことになったのだ。このとき古本屋を手配してくれたのは作家の片岡義男だった。
このほか、植草が印刷物を切り抜いてつくったコラージュ類など遺品の多くは、イベント会社主催による「植草甚一展」でファンに売り出された。そこでは故人の使いかけのちびた鉛筆までもが販売されたという(高平哲郎『植草さんについて知っていることを話そう』)。

植草甚一氏の蔵書の行方

死後、レコードに関してはタレントのタモリがすべて引き取ったが、蔵書は散逸したようだ。『ブルータス《本の特集》(1980年11月1日)』には夫人である梅子さんの話が掲載されている。
あの人が亡くなってから色々整理して今はこの部屋と書庫専用の部屋と2部屋になっています。(略)亡くなった後、何人か本の整理を申し出てくれた人もいましたが、みんなお断りしました。今は晶文社の人と、主人が昔から親しくしていた本屋さんだけが面倒みてくれています。本屋さんが少しずつ整理しながら売ってくれているんです。
記事には植草甚一氏の整理を手伝っている井光書店の話も紹介されている。
誰か全部まとめて引き取ってくれる人がいれば、散逸しなくて済むし有難いのだが、とても無理でしょう(略) 生かして使ってくれる人を探しています。
残念な気もするが、買い求め使用した本を市場に還元したという意味では、潔い選択なのかもしれない。資料を使いたい人のところへ回っていくはずだからだ。

第4回 持ち主を亡くした本はどこへ行くのか

2012年9月12日
posted by 西牟田靖

石井書店 恋文横丁

渋谷の横町を、植草さんのとおりに歩く


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 植草うえくささんの全集『植草甚一スクラップブック』には、毎回、月報がついていた。その月報には、一九七六年一月一日から書きはじめた植草さんの日記が、すこしずつ、のせてあった。
渋谷しぶやの横町の石井いしいさんのところ」が、日記のなかにときたま、出てきた。この、渋谷の横町の石井さんのところでの植草さんのトリップについて、ぼくに書けるだけ書いてみたいという気がしてきた。
 一月二十四日、土曜日の日記から、まず、すこし引用してみよう。
「用事がすんだあとで渋谷の横町の石井さんのところへ古本を買いに行きたくなる。ここんところ洋書の古本は石井さんのところが一番おもしろい。二時。やっぱり十五冊あって、いつものように大幅にまけてくれ四一〇〇円。さがしながら二時間ばかり遊んだとなるとこんなに安あがりなものはない。ヒサモトでコーヒーを飲んだが、寒いので六時半に帰って風呂ふろに入り、買った本をパラパラめくった」
 渋谷の横町とは、百軒店ひゃっけんだなのことだ。このあたり一帯はとっくにとりこわされ、大きな建物になっている。昔の面影は、どこにもない。
「石井さんのところ」は、この百軒店のなかにあった。洋書・洋雑誌専門の、かわいらしい古書店だった。
 道玄坂どうげんざかのほうから、植草さんは入っていくのだろうか。女性用の化粧品・洋品店と喫茶店とのあいだの露地の入口から奥をのぞくと、男性の服を売っている店や飲み屋さんなどの店のつらなりのむこうに、「石井さんのところ」が、見える。露地の奥、右側だ。
 店が休みのときは、鉄のシャッターが降りている。開いているときには、売りものの洋書が店の入口から露地にはみ出し、むかい側にもつみあげてある。軒下にるしてある雑誌や、露地に出した本棚につまったペーパーバックなどが、道玄坂に面したその露地の入口から、見える。
 露地の入口から「石井さんのところ」へ歩いていくまでに、もしそれが土曜あるいは日曜の午後だったら、どこからか、ラジオの競馬中継が聞こえてくるはずだ。
 道玄坂ではないほうから、入っていくこともできた。道玄坂を降りきった交差点から東急デパートのほうへいく道があるが、この道からも入っていける。
 男性用の服を売っている店が両側にある露地を入る。セメントを何度もかさね塗りして補修したその露地は、いつでも半分がとこ水にれているようだ。
 こちらから入っていくと、ニラをまぜた野菜をラードでいためるにおいとか、焼き魚のにおいとかがすることが多い。つまり、ぼくは、夕方から夜にかけての時間に、ここをよく歩くから、こんなことを記憶しているのだ。
 露地の入口を入ってすぐに左に曲がる。曲がらずにまっすぐいってしまうと、トイレにつきあたる。道玄坂からのびているまたべつの露地とぶつかるところだ。このトイレは、かつてはそのあたり一帯の店にくる客の共同トイレだったのだが、いまでは、一軒のお店の専用だ。ドアにり紙がしてあり、そう書いてある。
 左に曲がるとすぐに、「石井さんのところ」のむかい側の飲み屋さんのガラス戸に、古書店の映っているのがまず見え、あ、店は開いてるな、とわかるしかけだった。いまその飲み屋さんは改装工事中だ。
 その古書店は、かわいらしい。大きさは、四畳半をひとまわり小さくしたようなものだ。ほぼ正方形なのではないかと思う。
 三方が板壁で、洋書の古本が、ぎっしりとつみあげてある。店のなかには、大人がふたり入れるほどのスペースしかない。いろんな種類の本が、雑然と、うずたかく、天井てんじょうまで、つんである。どうすればいいのか、どこから見ていけばいいのか、見当もつかない気持ちになるけれど、店主の石井さんには、どんな本がどこにあるのか、明確にわかっている。店へいくたびに、思いもしなかった面白い本が、かならず手に入る。それに、安い。すこしたくさん買うと、いつもどんどんまけてくれる。
 ここで、植草さんは、本を「さがしながら二時間ばかり遊」ぶのだ。楽しいにちがいない。
 少年のころからはじまって、現在にいたるまでつづいてきた、小説、映画、音楽、美術などに対する飽くことのない好奇心が、古書の山を前にして、フル回転するのだから、楽しいにきまっている。これまでに体験してきたことや蓄積してきた知識が、縦横無尽に頭の中をかけめぐり、とだえることのない連鎖のなかで、古書の一冊一冊から、そしてその古書のほんのささいな一部分から、あらたなる好奇心とその満足のために、植草さんの「遊び」が二時間にわたって展開されていく。
 渋谷の横町へ来るたびに、植草さんはこの古書の山をすべて掘りかえすのだろうかと思って店主の石井さんにきいてみると、新しく入荷した本を植草さんのためにだいたいひとまとめにしておき、植草さんはそこを見ていくのだということだった。
 面白い本がいかに手に入るかを、ぼくの場合にそくして紹介しておこう。最近、この店で、三冊の本を買った。順にタイトルと著者名をならべると──
『草のまくら』ナンシー・フェラン(一九六九)
『冬を歩けば』エドウィン・ウエイ・ティール(一九五七)
『ガンジス河をゆっくりくだる』エリック・ニューバイ(一九六六)
 この三冊で、値段は一五〇〇円をこえなかったと思う。
『草の枕』は、オーストラリアで生まれ育った著者が、日本のあちこちを旅行した紀行文だ。すこし読んでみたが、とっても面白い。日本の布団と西洋のベッドとの意識構造の差異を直感してすぱっと書いた部分が冒頭にある。これまで考えてもみなかったことだけに、植草さん式に言うと、うなってしまった。この本は、ぜったいに楽しめる。おなじ本が何冊かあったから、植草さんも買ったかな。
『冬を歩けば』は、冬の北アメリカ大陸をサンディエゴからセントローレンス河の河口ちかくまで二万マイルにおよぶ旅の、自然誌的な紀行文だ。これも、とびきり面白そうだ。春、夏、秋がすでに三部作として刊行されていて、この『冬を歩けば』によって全四巻完結となるのだという。そうだとわかると、ますます面白い。
『ガンジス河をゆっくりくだる』は、タイトルのとおり、インドのガンジス河を、源流のガンゴトリ氷河からベンガル湾の河口地帯までくだって旅をしてきたその記録だ。この本も、まだ読んではいないけれど、すこぶるつきで面白いにちがいない。
 こんなふうにして、面白い本をぼくは単発的に、しかもほんのちょっと、見つけ出すだけなのだが、植草さんは、ありとあらゆる知識の連関やからみあいのなかで、次々に、まるで手品のように、面白い本をひきだす。これはまさに、トリップだ。自分自身のトリップとして、一生つづく遊びとして、ながいあいだやりつづけてきてはじめて自分のものになる楽しみだ。それがいかに楽しいトリップでありハイであるかは、『植草甚一スクラップブック』を読んでいけばわかる。
 カスミというコーヒー店が百軒店にあり、ひところ植草さんは、ここでよくコーヒーを飲みつつ、横町で買ってきた洋書を見ていたようだ。この店は、数年まえとまったくかわっていず、入るとタイム・トリップのように感じる。
 おなじ百軒店に、かつて『妹姉』というギョーザ屋さんがあった。小粒な、コロッとしてひきしまったギョーザが、なんとも言えずうまかった。いけばかならず、三人前食べた。植草さんは、ここでギョーザを食べたかな。店の名が、なぜ『妹姉』だったのか、いまになって不思議に思えてくる。改装してから、ぼくは、遊び場がかわったこともあり、いかなくなった。いまでもあるかもしれない。
 どんな気分のときに、植草さんは、「渋谷の横町の石井さんのところ」へいきたくなるのだろうか。どうやって、いくのか。まっすぐそこへ直行するとは、とても考えられない。どこへ立ち寄り、どこでコーヒーを飲み、横町のあと、どこへいくのか。バスでいった場合、三軒茶屋さんげんぢゃや三宿みしゅくに寄るのか。電車なら、下北沢しもきたざわで降りて白樺しらかばへ寄るか。渋谷へいく周期を、統計的につかみうるか。青山あおやま六本木ろっぽんぎに足をのばすのか。のばしたら、なにを買うのか。
 とても面白いミステリーだ。植草さんの日記その他の文章から、名探偵のように、割り出してみたくなった。いつか雨の日に、ためしてみようか。
(底本:『きみを愛するトースト』角川文庫 一九八九年)

渋谷 恋文横丁 石井書店

2014年04月03日

4/3恋文横丁の古本屋さんを妄想する

冷たい雨の降り続く中、息長~く続行中の「古ツアフェア@盛林堂」に四月最初の補充を行う。しかしその後は何処にも寄らず、真っ直ぐ家に帰宅する。部屋で端座し開いたのは、昨日買ったばかりの「スクリーン3月号/1956年」である。洋画専門の映画雑誌で、植草甚一の記事や、ヒチコック来日の特写ページ、着色が毒々しいカラー写真などが、すこぶる楽しい誌面となっている。ページをパラパラ繰りながら、流し読みで雰囲気を楽しんでいると、映画評論家・双葉十三郎の活動を追いかけた三ページのモノクロ・グラビアルポ『素顔の映画批評家 双葉十三郎氏の場合』の中にあった、一枚の写真に目が釘付けになってしまう。うぉっ!見たことも無い古本屋さんの写真じゃないかっ!それは、狭い間口の小さな古本屋さんで、双葉十三郎が店内で立ち読みをしている。店頭のラックに並ぶのは、映画・音楽・テレビの洋雑誌で、店内の本棚に並ぶのは分厚いペーパーバックのようだ。写真のキャプションには、渋谷東宝前の迷路的露地にある洋書専門古本屋さんで、良く探偵小説や西部の資料を漁っていることが書かれている。『渋谷東宝』は、道玄坂にあった映画館で、今も『TOHOシネマズ 渋谷』として健在である。その前に存在した“迷路的露地”と言えば、『109』や『ザ・プライム』の建つ場所にかつてあった『恋文横丁』であることが容易に推察出来る。と言うことは、このお店は植草甚一や田中小実昌も通った「石井書店」なのではないだろうか?脳内で、妄想がスパークして行く…。私の記憶にある『恋文横丁』は、残念ながら開発が進んだ残滓の状態で、レストランなど二~三のお店しか無い、文化村通りから道玄坂に抜ける、ビル裏の路地でしかなかった…。早速一番古い1967年発行の圖書新聞社「古書店地図帖」を取り出し、渋谷の古本屋さんを調べてみると、「石井書店」は掲載されておらず、近くに「文紀堂書店」(2010/03/02参照)と井の頭線を越えた「山路書店」があるのみとなっている。ところが1977年発行の日本古書通信社「全国古本屋地図」を見ると、こちらには『恋文横丁』にしっかりと「石井書店」が存在することになっている。地図帖からは何らかの事情で漏れていただけなのか、それとも1967年以降に「石井書店」が出来たのか…そうなると、写真のお店は「石井書店」ではないことになってしまう。だが、1950年代の『恋文横丁』の店舗地図を確認してみると、小さな古書店が一軒だけ存在していることになっている。ならばやはり、地図帖が間違っているのではないか…。続けてネットでも色々検索してみるが、『恋文横丁』にあった古本屋としてひっかかるのは「石井書店」だけなのである。その他に『洋書古書店』とだけあるものや、気になるところでは『小林さんの古本屋』『植草甚一も通っていた井上さんの古本屋』などが見つかるのだが、お店の名は明記されておらず、どちらも建築関係に特化したお店らしいのだ。しかし、雑誌と古本屋地図の二十年の隔たりが、信じたい気持ちをグラグラと揺らす…。そんな気持ちが弱り始めたところに、すべてを解決してくれる文章をようやく見つけてしまう!それは、片岡義男が書いた「渋谷の横町の石井さんのところ」と言う一文である。文字通り、植草甚一と『恋文横丁』と「石井書店」(文中では「石井古書店」となっている)について書かれたエピソードで、1976年の「カトマンズでLSDを1服」のあとがきでも、すでに「石井書店」について触れていることも書かれている(文中では、それを書いたのが1967年とあるが76年~80年に刊行された「植草甚一スクラップ・ブック」のあとがきなので、恐らく誤記なのではあるまいか)。……やはり植草甚一が通い詰めていたのは「石井書店」なのである。1976年の時点で通い詰めていたのなら、その近年にできたお店であるとは考え難い。そして『恋文横丁』にかつてあった洋書古本屋は、恐らく「石井書店」だけなのである。とにかく私は都合良くそう信じることにし、このもはや絶対に入ることの叶わぬ「石井書店」の、新たな古い夢を見ることとなってしまった。…小さな店舗が何十店も連なる、薄暗い迷路のような横丁にある古本屋さん。だが、仮に時を飛び越えることがあって、妄想したお店に入れたとしても、洋書のお店の常として、私には、何も買える本は、ないんだろうなぁ。
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※近代映画社「スクリーン3月号/1956」67ページ『素顔の映画批評家』より

植草さんの蔵書の行方


高平 哲郎  ()
植草さんについて知っていることを話そう
晶文社 (2005/1/1)

274頁
植草さんが亡くなって、本は片岡義男さんの知り合いの渋谷の古本屋が引き取った。コラージュやブティック類は、イベント会社「植草甚一展」を開きファンの手に渡った。