2020年7月27日月曜日

杏雨書屋は早川佐七の蔵書を一括購入したのだろうか?


小曽戸 洋氏の杏雨書屋のコレクションについての解説記事(日本医史学雑誌 第 61 巻第 1 号(2015))に以下の記述がある。

昭和 78 年頃,和敬翁は早川佐七(香邨)の蔵書を一括購入した(楂考書屋本).これが杏雨書屋の蒐書活動に拍車をかける契機になったといわれる.

この説明は正確さを欠いていると思われる。

武田和敬翁追想録編纂委員会(編)武田和敬翁追想、1960年に掲載されている「翁と図書(座談会)」にある杏雨書屋の特殊コレクションについて関係者が語っている記事を読むと、楂考書屋の蔵書のうち大部分の洋書は丸善に引き取られ、朝比奈先生の絡みで植物学専門雑誌の「Hedwigia」と「Flora」のみが杏雨書屋に引き取られとある。さらに楂考書屋の和漢書だけを購入したある

早川佐七(香邨)の蔵書のうち和漢書と洋書の一部が杏雨書屋が購入されたようである。

結局、早川は昭和7年にはその蔵書をすべて手放さなければならなくなった。洋書は丸善が一手に引き受けた。買値は3万八千円だったという。和唐本はその多くを井上が手掛け、一括して武長に納めた。 
215頁 井上書店の記 ー井上喜多郎小伝ー 井上書店 平成9年7月発行

141頁 十月二十一日 日記に早川佐七の話あり 

紙魚の昔がたり 昭和編 井上周一郎談および八木佐吉談 

2020年7月17日金曜日

おもしろい用法

東都生協の多くの組合員さんに八千代牛乳の利用を増やして頂いたことは、千語万語を費やしても表現できないほど感謝しております。

2020年7月1日水曜日

植草甚一 蔵書 評価


津野 海太郎(著)したくないことはしない-植草甚一の青春、新潮社、200910

195

1979年、植草さんが七十一歳で亡くなったあと、梅子夫人の依頼もあって植草さんの全蔵書を神田と渋谷の古本屋さんに売り払った。私もその後始末にかかわった人間のひとりだった。

この措置にたいするはげしい批判もあるにはあったが、もともと植草蔵書は一貫性のあるコレクションではなく、新しいもの好きの植草さんが、そのときどきの興味によって買いあつめてきた蔵書の山にすぎない。

石井書店と植草甚一


晶文社編集部(編)
植草甚一ぼくたちの大好きなおじさん-JJ 100th Anniversary Book 
晶文社、20088

鏡 明:散歩は探検だということを発明したのは植草甚一じゃないだろうかと思っている。

35頁 上段 
植草甚一という人を初めて見たのは、渋谷の道玄坂の下、恋文横丁の中にあった石井さんの店だったと思う。その店は洋書の古本屋だったのだけれども、巾一間ほどの店の前にはビニール袋に入れた洋雑誌がずらりと貼り付けてあった。その雑誌の下をくぐるようにして入ると、ハードカバーやペーパーバックが雑多な感じで積んであった。そのすぐ左側に石井さんが座っていて、客が一人入ったらもういっぱいになってしまう。いや、もう一人ぐらい何とかなったかな。

37頁下段
そのことを実感したのは、植草甚一の死後、その本の一部を見たときだ。
やっぱり八十年代の初めのことだけれども、恋文横丁の店を畳んだ石井さんが神田駿河台下と小川町の間のビルの三階に移ってきたことがあった。その店は植草甚一の蔵書の一部を売りさばくための店だった。